基本的に私が関心を持っているアートの作品群は、俳句や寿司のようなものです。
関心が高いだけに、自分自身もなるべくそのようなものを創りたいと志しています。
「戦争と平和」のような長い小説や、ヌーベルではないフレンチという嗜好は、そもそも私にはありません。
しかし、俳句を目指して創り始めても、五・七・五でまとまらず、要素や絵具の層をどんどん足していくうちに、制作過程や見た目が中編小説のようになってしまうことは、珍しいことではありません。
本質的な望みやアイデンティティから外れているため、それでも最終的に一定のレベルを確保しようとすると、当然のことながら非常に苦労します。
質感(マチエール)が足しあがっていきますので、完全に否定するつもりはありません。必ず失敗する訳でもないのです。かのピカソも、「何かを創ろうとすると別のものになってしまう」といった趣旨のことを言っていたと記憶しています。
そのため、寿司を握るつもりが、鴨のテリーヌにくるみペーストとあぶりキノコのソースを添えて・・という料理になってしまったとしても、それはそれで良いではないか、とこれまで自分を納得させてきました。ただ、いつもなんとなく違和感を感じていました。
そして今日ついに、この違和感の正体に気づきました。それはもっと早く気づいても不思議ではないものでした。
つまり、なりゆきの中で苦労し、その過程で色々なことを発見しながら作品を仕上げることは、もしそれを意識的にしたいなら良いことです。しかし、このプロセスに意図せずしてはまってしまった場合、自分が最も志向している「俳句」の訓練には少なくともならない、ということなのです。
あたかも、バットを振ってホームランを打たんとして平均台によじ登っているの感があります。
五・七・五だからこそ俳句になる。でも、今日はなりゆき上、八・九・二とか一・二十七・六・七十三でいってみるか、というオプションに我々は惑わされます。
実体は行きたくない方にもっていかれているのに、ぼーっとしているとついそちらの方が、「自由で豊か」に見えるからです。