先日、期待通りにいかなかったことがあって友達に愚痴をこぼしていた時のこと、しばらく黙って聞いていたその人が「でもそれって、わりとダイジョブだよね」と言いました。 
然り。大丈夫でなければ、私はその頃対応に駆け回っていたはずですから。 

ドイツの世界的画家、ゲルハルト・リヒターのビデオ「Painting」では、彼の抽象作品の制作過程をつぶさに見ることができます。 
たとえ既にかなり美しいと思える画面であっても、幅広のスキージ(持ち手を付けた板のようなもの)をその上に惜しげもなく走らせる。
これにより、色が混ざったり、一番上にあった絵具が隠れてしまったり、あるいは別のスキージの操作で、いきなり表にひっぱり出されたりします。 

この操作は何百回も繰り返され、彼の言葉によれば、追加の打ち手を取りうる可能性がなくなった時に、作品は完成します。 
画面を壊すのは、「わりとダイジョブ」なんだな、と私はこれを見て思いました。 

破壊するとか壊れるとかいうことは、作品に力を与えるためには必要かつ不可避であることがある一方、時に心情的には忌避され、ある場合は勇気の象徴であり別の場合は(どこかのプロセスで過ちを犯したなどの)愚かさの結果と認識されるなど、やっかいかつ興味深い存在です。
リヒターの技法は、結果を完全には不可知にしつつ破壊と創造を同時に行うことで、制作行為をかなり「選択」するということに振り切っているように見えるのがおもしろく感じました。 

とはいえ、ものの見方は使っている技法に影響されます。 
スキージのプロセスを上記のように感じるのも、技法のひとつとしてコラージュを使っているからかもしれません。
結局「選択する」ことはその中心だからです。 

もとい、「(壊すの)わりとダイジョブ」は、制作においてそして人生においても、友だちにしておく価値のかなりあるスタンスなのでは、と内心私は思っています。